現在宣伝含む活動で使っているSNSは、LINE・Twitter・YouTube・Facebook・Instagram (後半はやや持て余している感が否めないけど)。
TikTokに演奏上げないの?とか、ライブ配信しないの?みたいなことをもちろん聞かれたことはあるし考えたこともあるけど、TikTokに関しては完全にNOT FOR MEだったし、ライブはコロナ流行りたての頃に少しだけ実験的に数回やってみたもののこちらも以下同文という感じで。
これだけ人前に立つ仕事をしておいて何事だという感じだが、矛盾を承知で私は"目立つ"ことに抵抗がある。
この一文だけだと語弊しかないので詳しく書こうと思う。
自分を飾るのは好き。でもそれはわたし自身かなり多くの割合で自分の体を「容れ物だ」と認識しているから。なんというか、自分自身のものなのにすごくかけ離れたものに感じているとでも言うべきか。棚に陳列される商品のような。
"薄木葵"をどう見られたいかももちろんあるけど、私が体に合う服を着てアクセサリーで飾ってメイクで色付けて「着飾る」のは、≒「美しく在ろうとする存在がステージ上にあって欲しい」という自分の欲望であり願望の表れでもある。
生存に必要のない芸術分野。「見せる側」に立つのだからできる限り美しさだけを表出させたいと願い追求する。間違いや変化はあるかもしれないけど。そして自己満足に終わらないように、投げかけ、反応を拾う努力も怠たらない。
舞台上の身内だけで感動してるのを見せられるのが一番しらけるんだから(当社比)。価値を決めるのは多くの場合聴衆・受取手。
「個」として認識されることにどうやら私は強い抵抗を感じているらしいというのがここ数年の気付きである。薄木葵は私の名前だけれど、お仕事をする時…パフォーマーとしてある時は、それは商品名になる。薄木葵という商品。
例えばの話(メイクが好きだという人はきっとわかると思うけど)、睫毛が綺麗に上がったとかファンデのノリが良いとか、そんな小さなことで心は明るくなるし体のパフォーマンス性も向上したりする。舞台上に上がる、人前に出すものは良い状態のものが良いに決まっている。だから私は見栄えだとか、見え方だとか、見せ方/魅せ方を研究している。そして自分のご機嫌の取り方を探り続ける。自分の好きな方向性の感覚の中で。バランスが取れるように。好きとベターの合間を縫っていく。
今のこの世の中、SNSありきで成り立っているし私もその恩恵を受けている。
けど私は個人として興味を持たれるのは怖い。私という器を介して、その奥にあるものを見て欲しい、感じて欲しい。私自身がどこに住んでいてどういう趣味でとか、要らない。「生活をしている人」とはかけ離れていたい。こんだけ身近にいるんだけど、身近には存在していないものでありたい。
事実、実体験としてストーカー被害に遭うとか、何かから私的な何かを特定されたりとか、ハラスメントの類を受けたことがあるからというのは大きいと思う。そういう経験が無かったら、TikTokに動画をどんどん出したりだとかネット上でもっと広く活動していたと思う。実際、「バズった」と言われる人やコンテンツを羨ましく思うことは少なくはないから。隣の芝生が青いだけかもしれないけど。
ディ○ニーランド等のテーマパークで商業利用目的の動画、写真撮影が禁止されたのを随分前にネットニュースで見たけれど、そういう規則は周知されるまでに時間がかかるだろうし、「これは△△なので商業目的ではありません」とか言って無限にグレーゾーンを歩く人たちも当然出てくるだろうと思う(これは撮影に限った話では無いけれど)。
「不特定多数」を警戒しすぎとも思うんだけれど。生き方は変えられない…。
全然説明上手くありませんでした。ちゃんちゃん。
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